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長谷川櫂さんを訪ねる
秋晴を来て星空を帰りけり 櫂
第7句集『初雁』から、2002年の作とある。大きくみずみずしい葉の上 に、透明な露の玉がのっている情景を想像してみよう。露はときどき地に落ちてきえてしまうが、あとからあとから露がながれてきて同じ玉をつくるのである。 まるでディズニーアニメの一シーンのように美しいクローズアップである。「こぼれこぼれて」という中句は平明だが、なかなか出てこない表現であろう。
海の神であるわだつみが眠りについている間、海中世界は、どこまでも静かだ。音もなく、変化もない。そん な空気のような海の中を、まっすぐに進んでゆく鯨。差し込む太陽の光の柱を、ときにくぐり、ときにさえぎりながら、カメラの視界の中で大きくなり、そして 消えてゆく。鰭を動かすでもなく、大きく口を開けるでもない。止まっているようでありながら、その実、確かに進んでいる。キューブリックの映画「2001 年宇宙の旅」で、宇宙空間の暗闇を、宇宙船が淡々と進んでゆくシーンにも似ていると思うのは、鯨が、生き物というよりも、一つの物体のようだからだろう か。
水が濡れると言った途端「濡れていない水」が析出され、「春の水」の特異性がそこから切り出されることにな る。日常的事物たる「水」に季語という別な言語制度の時空から「春の水」が不意に介入し一体化するという事態が起き、それがほとんど性的な愉楽感を生じさ せる。いわば俳句という制度自体を組み込んだメタ俳句的な成り立ち方をしているわけだ。この句は、西脇順三郎の詩「雨」をプレテクストとして持つ。女神と しての雨があらゆるものを濡らし、神化・賦活してゆく動的な輝かしい詩だが掲句はそこから雑神性を切り捨て静謐なたゆたいの世界へ移調した。日常的時空と 季語的時空の差に拠っているだけでなく、先行作を持つ点でも間テクスト性の際立つ例外的な句だが、却ってそこに作者の資質が蒸留された形で鮮明に現われて いる。宙に浮いた透明な球ででもあるかのようなこの句の姿の単純さ、澄明さ。
長谷川氏がとある座談会で、飯田龍太氏に「射程を長く取りなさい」という言葉をかけられ、以後そのことが常に 胸中にある、ということを語っていた。この言葉は、掲句とともに、私の心中にも深く刻まれることとなった。はるか彼方に立つ「冬木」は、目指すべき詩境の 隠喩として屹立している。夏の緑の木は木陰を作り、いかにも人を待っているようであるが、「冬木」は御世辞にもそのようには見えないはず。それでも「待た れゐると思へ」と自分に言い聞かせているところに、詩人として生きていく孤独が凝縮されている。
木賊の形はおもしろい。まっすぐなようで、よく見ると、ゆるゆると曲がっている。横になった体に対して、木賊は縦にむかってゆるゆるとのびている。それがいくつかの夢を誘うのである。というか、木賊そのものが、夢の形だと言ってもいい。
第一句集『古志』所収。二十代の頃の作品であるが二十代にしてすでにこの美意識の高さはどうであろう。春の月そのものを詠んで、これほどまでに美しい句を私は他に見たことがない。思わず溜め息が出るほどだ。
蛇の衣を見たことが一回だけある。研究室で隣に座っている女性がその日の朝拾ってきたという蛇の衣をびろーん と見せてくれたのだった。ごわごわというかびろびろというか、ビニールのような、魚の皮のような、そんな感触。はたしてその頭の部分にまぶたがあったかど うか。ただ、この句では「し」という過去の助動詞「き」の連体形を使っているところからすると、もうそのまぶたはとれてしまったのかもしれない。失われや すい、うすいまぶた。そんな細かなフォルムを描写することで、衣を脱ぎ捨てていった蛇の存在感をありありと感じさせるところに大変興味を覚えた。 |